古染付

一般に中国,明末・天啓年間(1621~27)あるいは崇禎年間(1621~44)頃に作られ、江西・景徳鎮の民窯にて焼かれた染付磁器こという。南方民窯の呉須手とは区別される。高砂手・桜川水指・羅漢手の反鉢・魚形の向付など明らかに日本向けとされるものも含まれ、重厚なつくり、陶工の意匠を素直に表した飄逸みにあふれる文様が特徴。その味わい深い古染付、茶人に親しまれることによって日本では珍重され、ほとんどの遺品は日本にのみ伝わっている。

呼称の由来
古染付の呼称については諸説あるが、江戸時代の資料にはみられないことからも決して古くから使われていた言葉ではない。茶会記や箱書きによると、それ以前には「南京」つまり中国渡りの染付との意味で「染付南京」と呼ばれていたようである。その後江戸後期に伝わった煎茶道具の清朝染付に対して、初期に渡った古渡りの染付「古染付」と呼ばれたとの説が一般的である。

明末の景徳鎮
明末の景徳鎮 萬暦における御器廠への焼造下命はおびただしい量となり、碁石・碁盤・碁罐・屏風・燭台・筆管といった食器の類ではないものまで用命される。その結果、原料の消費は甚だしく麻倉の採土坑は深く掘り下げられ、役人は私腹を肥やし、陶工らは辛酸を舐めることとなった。 しかし、萬暦帝の崩御により御器焼造は中止となり御器廠は事実上の閉鎖を迎える。このような背景の中、景徳鎮民窯によっていわゆる古染付、天啓赤絵・芙蓉手・祥瑞・南京赤絵が生み出されていった。

古染付の特徴

古染付には「大明天啓年製」「天啓年製」あるいは「天啓年造」といった款記が底裏に書かれていることがあり、この他にも「天啓佳器」といったものや「大明天啓元年」など年号銘の入ったものも見られる。また年号銘でも「成化年製」「宣徳年製」など偽銘を用いた作例もあり、優品を生み出した過去の陶工に敬意を払いつつもそれまでの様式にとらわれることはなかった。これら款記は正楷書にて二行もしくは三行であらわされるのが慣例とされていたが、款記と同じく比較的自由に書かれており、まるで文様の一つとして捉えていたようにも思える。それ以前の景徳鎮では、このように自由な作例はみられず、民窯であったからこそ陶工の意匠を素直に表した染付を生み出すことができた。
虫食い
天啓で使われていた陶土は決して上質のものではなく、そのため焼成時に胎土と釉薬の収縮率の違いから生まれてしまう。特に口縁部は釉が薄く掛かるために気孔が生じて空洞となり、冷却時にその気孔がはじけて素地をみせるめくれがのこってしまう。本来、技術的には問題となるところを当時の茶人は、虫に食われた跡と見立て鑑賞の対象とした。古染付特有の特徴であることも知られる。
絵付
土青による濃青な発色をうまく使い、様々な器形に合わせて絵画的な表現を用い絵付を行った。それまでの型にはまった様式から一歩踏み出し、自由奔放な筆致で明末文人画を例にとった山水や花鳥、羅漢・達磨など描いている。
器形
中国では元来、小皿の形の多くは円形をなしている。古染付でも円形の小皿は多くみられ、その他にも様々な器形がつくられている。十字形手鉢・木瓜形手鉢・扇形向付といったものは織部に見られる器形であり、日本から木型等を送り注文をしていたのではないだろうかとも想像できる。轆轤を専門としていた景徳鎮において、手捻ねへの突然の変更は難しい。しかし、その注文に応じていくうちに更に独創的な形(菊形・桃形・柏形・魚形・馬形・海老形・兎形)を生み出し、古染付独自の器形をつくり上げていったことは確かである。

天啓赤絵
古染付と時同じくして天啓年間(1621~27)にはじまり、景徳鎮の民窯にて焼かれた赤絵のこという。萬暦まで続いた官窯様式から脱却した古染付に朱・緑・黄にて上絵付を施している。その特徴は古染付とほぼ同様であるが、古染付と比してその生産量はかなり少ない。


南京赤絵
南京とは中国を意味する言葉として使われており、南京赤絵とは中国・明末の赤絵のことを言うが、狭義では天啓赤絵・色絵祥瑞らと区別して使われることが多い。その意味で南京赤絵は、明末に景徳鎮で作られた五彩のことを指し、施文には染付を用いずに主として赤・緑・黄を使い、染付は銘など一部に限られている。 華麗な意匠のものが多く、口縁には鉄砂で口紅が施されるもの、金彩を加えた豪華なものがある。

参考文献
(和文)
平凡社 陶磁体系44 古染付・祥瑞
平凡社 陶磁体系45 呉須赤絵・南京赤絵
小学館 世界陶磁全集14 明
京都書院 古染付

収蔵美術館
東京国立博物館
京都国立博物館
出光美術館
滴翠美術館

 

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