五彩

白磁の釉上に赤や緑、黄色などの上絵具で文様を描き、低温度の窯で焼きつけたもの。日本では赤絵と呼ばれる。5つの色を使っているために五彩と呼ばれるのではなく、多くの色で彩った意。明代以降、景徳鎮を中心として盛んになり、嘉靖期には金彩を加えた金襴手なども登場した。民窯でも南京赤絵や天啓赤絵など多様な五彩が焼かれ、中国国内のみでなく多くの五彩が海外へ輸出される。清・康熙以降は精巧な五彩が官窯でつくられるようになり、粉彩や洋彩など新たな技法も生まれていった。

五彩のはじまり
発掘調査や輸出陶磁の遺品などから元代の景徳鎮ではじまったとされる説が有力ではあるが、いつごろはじまったのかについて正確なところは現在も分かっていない。磁州窯の赤絵や三彩技法を取り入れたとの説もあるがあくまでも推測の域を出ず、今後の調査報告が注目されている。

宋赤絵
上絵付技法は金代・磁州窯の宋赤絵にみられ、素地に白化粧を施して透明釉を掛けたその上から、赤・緑・黄などの上絵付で花鳥・草花文を描いて低火度で焼付けている。景徳鎮の五彩の比べ、乳白色の素地に絵付されるためやわらかな印象を持ち、民窯独特の味わいのある意匠をあらわしている。五彩にどのような影響を与えたか詳しいことは分かっていないが、その関連を完全に否定することは難しい。

珠山ー発掘調査
景徳鎮市陶瓷考古研究所に行われた御器廠・珠山の発掘調査は、官窯の実態解明に大きな役割を果たした。官窯として最高品質を保つため、未完成あるいは未完品ものとして破棄された数多くの遺物が見つかったことは、稀少な伝世品では知ることができなかった様々な技法について多くのことを語る貴重な資料なった。 珠山における発掘では大量の成化磁器片も見つかっている。それらを調査したところ、かなり完成度の高い製品がつくられていたにもかかわらず、ほんの小さなキズや書き損じなどによりはじかれ、さらにはその印として故意に開けたと思われる穴が底部付近に残される。同時に窯道具など磁器以外のものが捨てられていないことからも処分品のかたちで集められていたと推測され、厳しい検査・管理体制が確立していたことを窺わせる。 それら磁器片は、それまで知られていなかった径が20センチを超える鉢やさまざまな形式の「天」字罐が見つかっており、文様は花・果実・鳥・霊芝・八宝などさまざまで、様式としてかなり整理されていることが分かる。また、豆彩以外にも黄地緑彩・黄地紫彩・紅地緑彩といった五彩や黄地青花・翡翠釉青花、紅彩・黄彩・緑彩といった単彩など、なかには三彩や黒地翡翠彩なども存在し、成化官窯が如何に柔軟な発想を生み、活性化していたかをよくあらわしている。

明初~弘治・正徳
現時点の研究では五彩の起源は元にあるとされ、明初期をつうじて青花に倣いつつ、さまざまな過程経て、ついに成化期に豆彩を作り上げる。官窯でしかつくることのできない採算性を問わないものづくりは、完全な形で豆彩を生み出し、その端整な姿と淡く優美な色彩は後世の人々を魅了した
嘉靖~萬暦
この時期、民衆の力が増すとともに国内経済は活性し、陶業もその影響を受けて景徳鎮の生産は倍増、陶工の数も増え分業化が進むようになった。それまでの基軸であった青花においては民窯の参加(官塔民焼制)により自由な生産体制が布かれ、新しい装飾方法の五彩に至ってはより注目される技法として更なる発展を遂げる
民窯
青花と同様に、民窯は官窯とともに当初より存在し、官窯に対しての技術的遅れを自由な発想で補っていた。初期の段階に民窯五彩についてはまだ分かっていない部分が多く、民窯がその活動の範囲を広げた嘉靖期の研究が進んでいる。その多くが味わいある趣で茶道の世界と合致していたために、日本では大変持てはやされ、多くの遺品が伝わっている
天啓赤絵・南京赤絵については古染付参照
金襴手
嘉靖頃、五彩に金彩を施した磁器のことを日本で金襴手と呼んだ。技術的な意味合いよりも様式として捉えられることが多く、他の民窯五彩と同様に日本に多くの遺品が伝わる。器形や文様の多様さと金彩と五彩によるあざやかな色彩は、それまでにない艶やかさを陶磁器の世界にもたらした

参考文献
(和文)
河出書房 世界陶磁全集11 元・明
平凡社 陶磁体系 明の赤絵43
小学館 世界陶磁全集14 明
芸艸堂 金襴手名品集 小山富士夫
故宮博物院 故宮蔵瓷 明彩瓷1,2
学芸書林 中近東の中国陶磁 三杉隆敏

収蔵美術館
東京国立博物館
京都国立博物館
出光美術館
大阪市立東洋陶磁美術館
戸栗美術館
松岡美術館 

 

五彩魚藻文壷

五彩魚藻文壷 明・嘉靖

五彩水禽文柑子口瓶

五彩水禽文柑子口瓶 明・萬暦

五彩龍文皿

五彩龍文皿 明・萬暦